大和古寺風物誌(やまとこじふうぶつし)

 とくに上宮太子が病者貧民の身上を思うて設けた四天王寺四個院のごとき、また光明皇后の悲田施薬院乃至ないし施浴の風呂のごとき、すべて薬師如来の本願を思わする悲心の然らしめたところであった。かかる信仰あって、はじめて無双の仏体も造顕されたことは既に述べたとおりである。
――昭和十七年冬――
[#改丁]



 私の大和やまと古寺巡礼は、まず夢殿に上宮太子じょうぐうたいししのび、ついで法隆寺、中宮寺、法輪寺、薬師寺、唐招提寺とうしょうだいじ、東大寺を巡って、最後はいつも新薬師寺で終るのであるが、これで飛鳥あすか白鳳はくほう天平てんぴょうの主なる古寺はひととおり歩いたことになる。私がはじめて大和に古寺を訪れたのは、昭和十二年の秋であった。それから毎年春と秋には年中行事のようなつもりで出かけて行ったわけだが、戦争の最も激しかった二年間を除けば、これは今でも続いている。古寺巡りも、今年で足かけ十五年になったわけだ。その間、古寺古仏に対する私の気持にも様々の変化があった。私はそれをそのまま旅日記のようにして書きつけてみた。昭和十七年冬に一応まとまったので、大和の養徳社から出版したが、それがこの本の初版本である。
 毎年新たな感想がくたびに書きつけて、この本の増刷されるたびに、年代順に添えて行く、というのが私の楽しみであった。この本には十七年秋執筆のものが多いが、古くは十二年の初旅の思い出、戦後に添えたものとしては「書簡」(斑鳩宮)「微笑について」(中宮寺)などがある。今度新潮文庫に入れるに際し、読みかえしてみたが、十年前の文章などおさなつたない。しかし、これもその時期の記念と思ってそのままにしておいた。ただ重複している点や、不必要に装飾的なところなど若干削って、出来るだけ簡潔をむねとしたつもりである。
 私は古美術の専門家ではない。当然語らねばならぬ多くの伽藍がらんや古仏にふれてない様式等に関しても精密ではない。そういう研究書なら他にいくらもあると思った。私は古寺を巡りながら、そういう研究書を参考にしながらも反撥はんぱつを感じたのであった。仏像を語るということは、古来わが国にはなかった現象である。仏像は語るべきものでなく、拝むものだ。常識にはちがいないが、私はこの常識を第一義の道と信じ、ささやかながら発心ほっしんの至情を以て、また旅人ののびやかな心において、古寺古仏に対したいと思ったのである。仏像が私にそれを迫ったとっていい。つまり私は菩提心ぼだいしんを誘発されてしまったわけだ。したがってこの本は、自分にとっては求信過程の一産物というようなかたちにもなっている。
 また大和の旅で、私は日本歴史というものを、はじめて身に実感した。主として上代だが、この旅を縁として、私は歴史に深く入ってみたいと思うようになった。歴史とは祖先の悲願の宿っているところだ。その願が古寺や古仏にどんな風にあらわれているか、仏教をうけ入れたときの上代人のうれいや、法悦や、云わば歴史と宗教は一緒になって、私をそそのかしたのである。日本書紀、続日本紀しょくにほんぎ等を夢中で読みはじめたのもこの頃からで、それが後に「聖徳太子」「親鸞しんらん」などの著作となってあらわれた。この本の発展したものと云ってもいいだろう。
 そんなわけで、この本は歴史書のようなところもあるし、宗教的でもあるし、美術として考えている個所もあるし、また旅行記として書かれた文章も入っている。歌やら詩やら、その折々の心のままに雑然と書いたもので、そこに特徴があるかもしれない。読者は、大和への旅の途上でも、あるいは家の中ででも、自由に勝手なところから読んで頂きたい。広い古典の世界に遊び、我々の遠い祖先達の苦闘の跡や遺品に接し、日本の深さに幾分なりともふれてもらえれば幸いである。
 この十数年間にも、大和古寺には二三の変化があった。たとえば法隆寺の壁画は焼けてしまったし、この集の法輪寺にかいてある三重塔も、昭和十九年雷火のため焼失して今はない。新薬師寺の香薬師像は盗難に遭ったまま、今もって発見されない。十年前の筆だから、その他にも今日と変っているところがあると思う。これからも何が崩壊するか、焼失するか、予測し難い。遺憾だが、これは古寺古仏の運命というものかもしれない。今のうちに出来るだけ見ておくことだ。ほんとうの美しさ深さは、とても筆や写真では伝え難いのである。

昭和二十七年晩秋
著者