生い立ちの記(おいたちのき)


 私は数え年の二つのとき、父母に伴われて大阪へ行った。大正の始であった。
 その頃、私の父は摂津大掾せっつのだいじょうの弟子で、文楽座ぶんらくざに出ていた。父は二つのとき失明した。脳膜炎を患ったためだという。父は十三四の頃初めて大阪へ行き、はじめ五世野沢吉兵衛の手解てほどきをうけ、その後当時越路太夫と云った摂津大掾のもとに弟子入りをした。祖父の姉で出戻の身を家に寄食していた人が、父に附添って行った。父は時々、学生の帰省するように、東京へ帰ってきては、また大阪へ出向いていたようである。その間に父は結婚して、兄と私が生れた。乳離れのしなかった私が連れられて行ったのは、父の最後の大阪行のときであった。
 大阪のどこに私の一家が住んでいたのか、私は知らない。大阪の家には、父母と私と祖父の姉にあたる人(この人のことを、家ではひとつは祖母と区別するために、大阪おばあさんと呼んでいた)と、それから私の子守のしづやがいた。しづやも東京者で、私達と一緒に大阪へ行ったのである。東京の家には、祖父母と兄がいた。兄は私より二つ年上であった。
 その頃、文楽座は御霊神社のそばにあった。私達が住んでいたのも、そこからそう遠いところではなかったであろう。御霊神社のことを、「ごりょうさん。」と云っていたのを覚えている。おそらく土地の人がそう呼び馴染なじんでいたのを、私達もそのままならっていたのだろう。私はしづやに被負おぶさって、よく御霊神社の境内へ遊びに行ったようである。「しいや、ごりょうさんへ行くの、しいや、ごりょうさんへ行くの。」そう云って私がしづやにせがんだということを、東京に帰ってきてから、よく母などから聞かされたものである。私は「しづや。」という発音ができず、いつも「しいや。しいや。」と呼んでいた。御霊神社の縁日えんにちで、夜店の飴屋のみせをしづやの背中にいて見て、あめが欲しいとせがんだら、「あれは毒です。」としづやから叱るように云われて、飴屋の親爺おやじの顔がそのとき鬼のように見え、毒なものをなぜ売っているのだろうと子供心にいぶかしく思ったことを覚えている。文楽座で御廉みすの垂れているのを見た記憶が眼に残っている。おそらく開演前に土間からでも、しづやに被負っていて見た記憶であろう。やはり御霊神社の近くだったらしいが、あやめ館と云う寄席よせがあって、そこへも私はよくしづやに連れられて行ったようである。寄席の入口の前にしづやといたとき、女芸人が人力車で乗りつけたのを見た。中へ入って私達はその女芸人が舞台でやるのを見た。「さっきのねえさんですよ。」としづやが私におしえた。私も覚えていた。女芸人が懐中電灯を掌にして踊りのようなことをしたのを覚えている。しづやは木魚をたたいて阿呆陀羅経あほだらきょうの真似をするのが巧かったそうである。暮れがたの町中で、しづやに被負りながら、その阿呆陀経を聞いたような記憶がある。私の玩具の中には、黒ずんだ色の手頃の大きさの木魚が一つあって、かなり後まで残っていた。摂津大掾は私の父を可愛がり、私も家に連れてゆかれて、摂津大掾の膝に抱かれて、摂津大掾がてずからむしってくれた魚を食べたことがあるそうである。私の幼い記憶には、そのときの膳の上の魚の白身の印象が眼に残っていた。少し覚束おぼつかない気もされるが、後になってその話を聞いてから、私がつくりあげたイメージではないようだ。住んでいた家のことは、ほとんど記憶にない。ただその家が通りに面して格子窓のある家であったのを覚えている。窓の外を牛乳売りが通りかかったのを聞きつけて、買ってくれと母にせがみ、なだめられてもききわけがなくて、仕方なく母が買ってくれた牛乳を一口飲んで吐出してしまったことがあったのである。「そらごらん。」と母から云われたようである。おそらく、それまでにも母が一度ならず牛乳を与えても、私は嫌って飲まなかったのだろう。窓の外を通りかかったものが、常々自分が嫌っているものだとは知らず、私はしつこくせがんだのだろう。そのとき私は子供ながらにひどくりたらしく、その後かなり長いあいだ私は牛乳を毛嫌いしていた。私は牛乳を飲まず、母乳だけで育った子供のようである。瀬多屋という菓子屋と私の家は懇意にしていたようで、その後東京へ帰ってからも、その家のうわさがよく出た。瀬多屋の主人は私を可愛がってくれたそうである。
 私が五つになった年に、父は文楽座を退いて、私達一家は東京へ帰った。鮨屋の娘で同じ年頃の女の子がいて、私と仲よしで、私が東京へ帰ることを聞かされて泣いたそうである。後になっても、その話を聞かされた。私はその女の子のことを少しも覚えていない。私達は夜汽車で大阪を立ったようである。夜の道をくるまを連ねて停車場へ行った。私は母の膝に抱かれて俥に乗っていたのだろうが、前をゆく俥の後姿が眼に残った。発車前に、見送りにきてくれた人が、男の人が思いついたように駅弁を買って窓口から入れてくれたことを覚えている。その人が瀬多屋の主人であったと私は記憶してきている。東京駅から自動車で家に帰った。それが私が自動車というものに乗ったことを記憶している最初である。電車通りを行ったことを覚えている。自動車には出迎えにきてくれた年寄の女の人が同乗していた。それは祖母だったらしいのだが、その後祖母と一緒に暮すようになってから、私にはどうもその年寄が祖母とは別の人だったような気がしてならなかった。その日は旗日で、家の玄関の前に国旗が掲げてあったのを覚えている。私の家は吉原遊廓よしわらゆうかくのはずれの俗に水道尻という処にあったのだが、検査場(吉原病院)の方から太鼓の音のようなものが聞えてきて、私はそれを気にして久し振りに帰ってきたわが家の玄関をしきりに出たり入ったりしたようである。