新都市音楽ノート(しんとしおんがくノート)

ラジオ室の誘惑

 レイモンド・チャンドラーがしばしば不似合いなほどのウィットの効いた台詞を登場人物に語らせることは、ミステリ・ファンならよくご存じのとおりである。例えば、チャンドラーの手にかかると、たかが警官一匹が私=探偵マーロウとこんな会話をやりとりしたりする。

「君の道楽はなんだね」と、私は訊いた。
「ピアノを弾くんだよ。頭が古くてね。モツァルトとバッハが好きなんだ。モツァルトはいいぜ。単調のようだが、すばらしい」
「誰がうまいだろう」
「シュナーベル」
「ルビンシュタインは……」
「感情がはいりすぎる。モツァルトは純粋な音楽だ。演奏者の解釈は要らない」
(『かわいい女』清水俊二訳 創元推理文庫)

 チャンドラーの伝記としては唯一信頼できる書といっていいフランク・マクシェインの『レイモンド・チャンドラーの生涯』(清水俊二訳 早川書房)を見るかぎり、チャンドラー自身はさほど音楽に詳しいタイプではなかったようだ。愛妻のシシーは趣味でピアノを弾く人だったようだし、チャンドラーはシシーが手なぐさみに弾くクラシックの小品を好んで聴いたらしい。しかしながら、当人の関心の向くところはせいぜいがアントン・カラスのチター演奏あたりだったという意味の記述が、同書には出てくる。
 そうしてみると、チャンドラーが物語中にさりげなく織り混ぜた音楽にまつわる洒落た台詞(数は多くないが、なぜだか記憶に残るのだ)は、パーティーか何かで他人が話していたのを小耳にはさんで仕込んだものなのだろうか、それともシシーのアドバイスを得て取り込んだのだろうか。
 今となってはよくわからないし、むきになって詮索するほどのことでもあるまい。しかし、音楽が人一倍好きでミステリもよく読むというタイプの人にとっては、例えば次のような会話は黙って通り過ぎることは難しいはずだ。

「グッドマンがごひいきらしいね、ミス・クレッシー?」
 女はゆっくりと視線を動かした。そこの照明はごく暗いものだったが、菫色の瞳はまだ眩しそうだった。つぶらな深みのある目は考えごとをしていた痕跡などまるでない。古典的な顔立ちは能面のようだった。
 女は返事をしなかった。
 トニーは笑顔を浮かべると、指の一本一本を、ちゃんと意識しながら両脇へうつした。
「グッドマンがごひいきらしいね、ミス・クレッシー?」
 彼はまた静かにくりかえした。
「泣かせるってほどでもないわ」と、女は無抑揚にこたえた。
(『待っている』稲葉明雄訳 創元推理文庫)

 夜更けのホテルである。すでにロビーの明りは落とされているが、かすかに音楽が聞こえている。またあの赤毛の女がおれさまのとっておきの場所を占領していやがる……ホテルの雇われ探偵トニー・リゼックは、深夜の自分の聖域を取り返しにラジオ室へと入ったのだった。
 ほどなく探偵はラジオを消した。すると、女がまた口を開く。

「誤解しないでね」と、女が言った。「グッドマンはお金をかせいでいるわ。そして、いまどき悪いことをしないでお金もうけのできるひとは、あたし、尊敬する値打ちがあると思うのよ。だけど、このジルバっていうのは、安ビヤホールの伴奏音楽みたいね。あたしとしては、もっと薔薇のにおいがするようなもののほうが好き」
「モーツァルトならお気にめすかもしれん」と、トニーは言った。
「たんと、おからかいなさい」
「からかっているわけじゃない。モーツァルトこそ、古今をつうじての偉大な人物だと、わたしは思っているんだぜ——トスカニーニがその代弁者でね」
(前出)

 この小説は一九三九年に世に出た。邦訳の文庫本で三〇ページほどの、チャンドラーが残したうちでは最も短い作品だが、高級大衆雑誌『サタデイ・イブニング・ポスト』に掲載された唯一の作品でもある。そのことと関連して、『レイモンド・チャンドラーの生涯』には次のようなチャンドラー自身の一文が引用されている。「高級大衆雑誌はよい稿料を払う。…そして、編集者たちはひじょうにいい人たちだ。だが、困ったことに、彼らはきわめて確信に欠けている。何を求めているのか、彼らに確信がないので、もし彼らが判断をあやまると、こっちがたちまち失職する」
 事情あってパルプ・マガジンのライターになりはしたものの、文学的野心を失わなかった作家がパルプ・マガジンの親玉ともいうべき高級大衆雑誌とかかわりをもったあげくの困惑の、正直な告白である。いまになってみると、そこには本来の意味を越えて、メディア(マス・メディア)とメディアに才能を提供する個人との普遍的な確執が含まれていると感じられる。結論だけを先走りしていえば、小説自体の舞台設定と作家の告白とを轢き臼にかけるとき、その中核にシンボリックに浮かび上がってくるのが実は〈ラジオ〉なのである。


 ラジオ放送がアメリカで商業化されたのは、一九二〇年代のことである。あらゆるメディアの常として当初はもの好きの金持ちの占有物でしかなかったラジオも、三〇年代に入ると広く普及する。『待っている』のラジオ室にあったのはおそらくはコンソール型の豪華受信機の類だったろうが、ラジオ自体はすでに大衆のものだった。だからこそ、平凡な大衆の一人であるミス・クレッシーは進んでラジオ室の人となっていつもの日常的な感覚で流れる音楽に身を任せ、旅先の孤独を束の間忘れることができたのである。