袈裟と盛遠(けさともりとお)

 では、比較的そう云う未練を感じていない己が、どうしてあの女に関係したのであろう。己は第一に、妙な征服心に動かされた。袈裟は己と向い合っていると、あの女が夫のわたるに対して持っている愛情を、わざと誇張して話して聞かせる。しかも己にはそれが、どうしてもある空虚な感じしか起させない。「この女は自分の夫に対して虚栄心を持っている。」――己はこう考えた。「あるいはこれも、己の憐憫れんびんを買いたくないと云う反抗心の現れかも知れない。」――己はまたこうも考えた。そうしてそれと共に、この嘘を暴露ばくろさせてやりたい気が、刻々に強く己へ働きかけた。ただ、何故なぜそれを嘘だと思ったかと云われれば、それを嘘だと思った所に、己の己惚うぬぼれがあると云われれば、己には元より抗弁するだけの理由はない。それにも関らず、己はその嘘だと云う事を信じていた。今でもなお信じている。
 が、この征服心もまた、当時の己を支配していたすべてではない。そのほかに――己はこう云っただけでも、己の顔が赤くなるような気がする。己はそのほかに、純粋な情欲に支配されていた。それはあの女の体を知らないと云う未練ではない。もっと下等な、相手があの女である必要のない、欲望のための欲望だ。恐らくは傀儡くぐつの女を買う男でも、あの時の己ほどは卑しくなかった事であろう。
 とにかく己はそう云ういろいろな動機で、とうとう袈裟と関係した。と云うよりも袈裟をはずかしめた。そうして今、己の最初に出した疑問へ立ち戻ると、――いや、己が袈裟を愛しているかどうかなどと云う事は、いくら己自身に対してでも、今更改めて問う必要はない。己はむしろ、時にはあの女に憎しみさえも感じている。殊に万事がおわってから、泣き伏しているあの女を、無理に抱き起した時などは、袈裟は破廉恥はれんちの己よりも、より破廉恥な女に見えた。乱れた髪のかかりと云い、汗ばんだ顔の化粧けしょうと云い、一つとしてあの女の心と体との醜さを示していないものはない。もしそれまでの己があの女を愛していたとしたら、その愛はあの日を最後として、永久に消えてしまったのだ。あるいは、もしそれまでのおれがあの女を愛していなかったとしたら、あの日から己の心には新しいにくしみが生じたと云ってもまた差支さしつかえない。そうして、ああ、今夜己はその己が愛していない女のために、己が憎んでいない男を殺そうと云うのではないか!
 それもまったく、誰の罪でもない。己がこの己の口で、公然と云い出した事なのだ。「わたるを殺そうではないか。」――己があの女の耳に口をつけて、こうささやいた時の事を考えると、我ながら気が違っていたのかとさえ疑われる。しかし己は、そう囁いた。囁くまいと思いながら、歯を食いしばってまでも囁いた。己にはそれが何故なぜ囁きたかったのか、今になって振りかえって見ると、どうしてもよくわからない。が、もし強いて考えれば、己はあの女をさげすめば蔑むほど、憎く思えば思うほど、益々何かあの女に凌辱りょうじょくを加えたくてたまらなくなった。それには渡左衛門尉わたるさえもんのじょうを、――袈裟けさがその愛をてらっていた夫を殺そうと云うくらい、そうしてそれをあの女に否応いやおうなく承諾させるくらい、目的にかなった事はない。そこで己は、まるで悪夢に襲われた人間のように、したくもない人殺しを、無理にあの女に勧めたのであろう。それでも己が渡を殺そうと云った、動機が十分でなかったなら、あとは人間の知らない力が、(天魔波旬てんまはじゅんとでも云うがい。)己の意志をさそって、邪道へ陥れたとでも解釈するよりほかはない。とにかく、己は執念深く、何度も同じ事を繰返して、袈裟の耳に囁いた。
 すると袈裟はしばらくして、急に顔を上げたと思うと、素直に己のもくろみに承知すると云う返事をした。が、己にはその返事の容易だったのが、意外だったばかりではない。その袈裟の顔を見ると、今までに一度も見えなかった不思議な輝きが目に宿っている。姦婦かんぷ――そう云う気が己はすぐにした。と同時に、失望に似た心もちが、急に己の目ろみの恐しさを、己の眼の前へ展げて見せた。その間も、あの女のみだりがましい、しおれた容色の厭らしさが、絶えず己をさいなんでいた事は、元よりわざわざ云う必要もない。もし出来たなら、その時に、己は己の約束をその場で破ってしまいたかった。そうして、あの不貞な女を、辱しめと云う辱しめのどん底まで、つき落してしまいたかった。そうすれば己の良心は、たとえあの女をもてあそんだにしても、まだそう云う義憤のうしろに、避難する事が出来たかも知れない。が、己にはどうしても、そうする余裕が作れなかった。まるで己の心もちを見透みとおしでもしたように、急に表情を変えたあの女が、じっと己の目を見つめた時、――己は正直に白状する。己が日と時刻とをきめて、渡を殺す約束を結ぶような羽目はめに陥ったのは、まったく万一己が承知しない場合に、袈裟が己に加えようとする復讐ふくしゅうの恐怖からだった。いや、今でもなおこの恐怖は、執念深く己の心を捕えている。臆病だとわらう奴は、いくらでも哂うがい。それはあの時の袈裟を知らないもののする事だ。「おれわたるを殺さないとすれば、よし袈裟けさ自身は手を下さないにしても、必ず、己はこの女に殺されるだろう。そのくらいなら己の方で渡を殺してしまってやる。」――涙がなくて泣いているあの女の目を見た時に、己は絶望的にこう思った。しかもこの己の恐怖は、己が誓言せいごんをしたあとで、袈裟が蒼白い顔に片靨かたえくぼをよせながら、目を伏せて笑ったのを見た時に、裏書きをされたではないか。