新生(しんせい)

 午過ひるすぎの日は新しい住居すまいの二階の部屋に満ちた。東北ひがしきたに開けた窓の外には、細くてしかもつよかしの樹の枝が隣家の庭の方から延びて来ていて、もうそろそろ冬支度ふゆじたくをするかのような常磐樹ときわぎらしい若葉が深い色に輝いた。幾度となく岸本はその窓へ行った。樫の樹のこずえの上の方に開けた十一月らしい空を望んだ。そして遠い旅に上る節子のために、その好い日和ひよりを祝してやった。台湾の伯父さんに附添いながら、いそいそとして谷中の家を出る旅人としての彼女の姿が岸本の想像に上って来た。
「婆や、今何時だねえ」と岸本はその窓の側から階下したへ声を掛けた。
「丁度一時でございます」と婆やは眼鏡を掛けたまま梯子段はしごだんの下へ来て答えた。
「台湾のお客さまは今東京駅を発つところだよ」
 と岸本は言って見せて、た窓の外をながめた。青い明るい空のかなたには、遠く流れる水蒸気の群までが澄んで見渡された。彼は香港ホンコン上海シャンハイへ寄港して来た自分の帰国の航海を思い出し、黒潮を思い出し、あの辺の海の色を思い出し、初めて台湾あたりへ踏出して行く節子のためにも彼女の船旅の楽しかれと願った。
 岸本はその足で梯子段を下りた。子供の部屋と食堂の間を通って縁側から庭へ下りた。そこには草花を植えるぐらいのわずかな空地があった。節子の残して置いて行った秋海棠しゅうかいどうの根がへいわきに埋めてあった。
「遠き門出の記念として君が御手みてにまいらす。朝夕つちかいしこの草にいこう思いを汲ませたもうや」
 この節子の書き残した言葉が岸本の気に成った。引越早々の混雑の中で、彼は四つの根を庭に埋めて置いたが、その埋め方の不確実ふたしかなのが気に成った。何となくその根のつくと、つかないとが、これから先の二人の生命いのちに関係でもあるかのように思われて成らなかった。試みに掘出して見ると、毛髪でも生えたように気味の悪い秋海棠の黒ずんだ根が四つとも土の中からころがって出て来た。
「父さん、どうするの」と学校から早びけで帰って来た繁がいた。
「ああそうだ、お節ちゃんが置いて行ったんだね」と泉太も庭へ下りて来て言った。
「やあ。僕も手伝おうや」
 こういう子供を相手に、岸本はその根を深く埋め直して、やがてやって来る霜にもいたまないようにした。節子はもう岸本の内部なかに居るばかりでなく、庭の土の中にもいた。