好色(こうしょく)

 すると十五六のわらはが、すぐに其処へ姿を見せた。ませた顔に白粉おしろいをつけた、さすがにむさうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。
 一度引きこんだ女の童は、局の口へ帰つて来ると、やはり小声にこんな返事をした。
「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢ひになるさうでございますから。」
 平中は思はず微笑した。さうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、遣戸やりどの側に腰を下した。
「やつぱりおれは智慧者だな。」
 女の童が何処かへ退いた後、平中は独りにやにやしてゐた。
「さすがの侍従も今度と云ふ今度は、とうとう心が折れたと見える。兎角とかく女と云ふやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさへすれば、すぐにころりと落ちてしまふ。かう云ふ甲所かんどころを知らないから、義輔よしすけ範実のりざねは何と云つても、――待てよ。だが今夜逢へると云ふのは、何だか話がうますぎるやうだぞ。――」
 平中はそろそろ不安になつた。
「しかし逢ひもしないものが、逢ふと云ふ訳もなささうなものだ。するとおれのひがみかな? 何しろざつと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやつても、返事一つ貰へなかつたのだから、ひがみの起るのも尤もな話だ。が、ひがみではないとしたら、――又つくづく考へると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切にほだされても、今までは見向きもしなかつた侍従が、――と云つても相手はおれだからな。この位平中に思はれたとなれば、急に心も融けるかも知れない。」
 平中は衣紋えもんを直しながら、づあたりを透かして見た。が、彼のゐまはりには、くら闇のほかに何も見えない。その中に唯雨の音が、檜肌葺ひはだぶきの屋根をどよませてゐる。
「ひがみだと思へば、ひがみのやうだし、ひがみでないと、――いや、ひがみだと思つてゐれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思つてゐれば、案外ひがみですみさうな気がする。一体運なぞと云ふやつは、皮肉に出来てゐるものだからな。して見れば、何でも一心いつしんにひがみでないと思ふ事だ。さうすると今にもあの女が、――おや、もうみんな寝始めたらしいぞ。」
 平中は耳を側立そばだてた。成程なるほどふと気がついて見れば、不相変あひかはらず小止をやみない雨声うせいと一しよに、御前ごぜんへ詰めてゐた女房たちが局々つぼねつぼねに帰るらしい、人ざわめきが聞えて来る。
「此処が辛抱のし所だな。もう半時はんときもたちさへすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思ひが晴らされるのだ。が、まだ何だかはらの底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。さうさう、これが好いのだつけ。逢はれないものだと思つてゐれば、不思議に逢ふ事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、さう云ふおれの胸算用むなさんようも見透かしてしまふかも知れないな。ぢや逢はれると考へようか? それにしても勘定づくだから、やつぱりこちらの思ふやうには、――ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考へよう。大分どの局もひつそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早速眼をつぶつて、雨の事でも考へるとしよう。春雨、五月雨、夕立、秋雨、……秋雨と云ふ言葉があるかしら? 秋の雨、冬の雨、雨だり、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、雨竜あまりよう、雨蛙、雨革あまがは、雨宿り、……」
 こんな事を思つてゐる内に、思ひがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然弥陀みだ来迎らいがうを拝した、信心深い法師よりも、もつと歓喜に溢れてゐる。何故と云へば遣戸やりどの向うに、誰か懸け金をはづした音が、はつきり耳に響いたのである。
 平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思つた通り、するりとしきゐの上をすべつた。その向うには不思議な程、空焚そらだきの匂が立ちめた、一面の闇が拡がつてゐる。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進み寄つた。が、このなまめいた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはひもしない。たまたま手がさはつたと思へば、衣桁いかうや鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動悸が、高まるやうな気がし出した。
「ゐないのかな? ゐれば何とか云ひさうなものだ。」
 かう彼が思つた時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさはつた。それからずつと探りまはすと、絹らしい打衣うちぎぬの袖にさはる。そのきぬの下の乳房にさはる。円々した頬やあごにさはる。氷よりも冷たい髪にさはる。――平中はとうとうくら闇の中に、ぢつと独り横になつた、恋しい侍従を探り当てた。